2011年4月15日金曜日

石炭は核よりも危ない

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● 放射線検査をしながら東京で販売されたイチゴ(12日)




ウオールストリート・ジャーナル 2011年 4月 14日 16:49 JST
http://jp.wsj.com/Opinions/Opinion/node_222310

【オピニオン】石炭は核よりも危ない
ホルマン・ジェンキンス

 ドイツの緑の党が、初めて州政権一つを握ることとなった。
 ドイツでは日本の原子力発電所の危機を受けて複数の原発を一時的に停止したが、それら原発の将来を決するのにちょうど間に合った形だ。
 日本の原発問題が影響し、緑の党は2週間前の州議会議員選挙で異例の勝利を勝ち取った。

 緑の党が原発反対の姿勢を維持するなら、その結果もたらされる電力不足には、消費者が価格の大幅上昇を受け入れることで対応するしかない。
 しかし、緑の党のリーダー、クレッチマン氏はすぐに過激な政策をとろうとはしないだろう。
 風力や太陽光は夢の話だ。
 選択肢となるのは、原子力か石炭だ。

 いまやチェルノブイリと並ぶレベルとなった日本の惨状を受けて(ただし、放出された放射性物質の量は比較にならないほど低いが)、世界中の国々が同様の選択をしている。
 どこの政府も、さまざまな考え方が入り乱れた現代科学の難問と再び向き合うこととなった。
 すなわち、
 「低レベルの放射線を浴びると、どのくらい害があるのか
という問題だ。

 過去60年間、異常な量の放射線を浴びた人たちの間で、「過剰な」発がん率があるかどうかが研究されてきた。
 その結果は、科学的に満足なものではなく、政治的にやっかいなものだ。
 米国と日本の政府が共同で行い、かつては評価されていた広島と長崎の研究では、低線量の被ばくでは、がんのリスクはほとんど、あるいはまったくないという結果だった。
 むしろ、低線量の被ばく者は「がん以外の」病気による死亡が少ないことから、長寿につながるとも考えられた。
 だが、この原爆の研究は、ここ数十年で科学的な価値が疑われるようになった
 理由の一つは「生存者バイアス」だ。
 生き残った人たちは、原爆だけでなく、その後すぐに住居の喪失や飢え、台風などを経験し、くぐり抜けてきた。
 つまり、一般的な日本人より屈強な人々ではないかと考えられるのだ。

 1980年代には、胎児のときにエックス線を浴びた英国の幼児の調査や、米国核施設の労働者の調査が行われ、原爆の研究は次第に脇に追いやられるようになった。
 これには法規制の面での思惑も絡んでいた。
 これらの調査では、シンプルで直感的な
 「比例的で、閾値はない
という仮説が証明されたと考えられたのだ。
 つまり、放射線の危険度は、線量に正比例するということだ。

 これらの調査にも問題はあった。
 英国の母親たちは、出産後何年も経ってから、妊娠中に何回エックス線を浴びたかを記憶に頼って答えなければならなかった。
 ハンフォード核施設の労働者の調査でも、3万5000人の労働者の中で2500人ががんにかかり、それが6%から7%「過剰」だったと主張していた。

 ほかにも、さまざまな説がある。
 研究所内の実験では、低レベルの放射線は細胞自体の修復機能を刺激すると考えられた。
 放射線科医を対象とした研究では、エックス線の危険性が知られる前に仕事に従事していた人たちの間では、発がん率が高いことが示された。
 しかし、のちの調査では、少量の放射線を一生涯浴び続けても、まったく影響がなかったという結果も示された。

 そして「ホットパーティクル」の問題もある。
 つまり、本当に危険なのは、飲み込まれたり吸い込まれたりして、体内に長期的に存在し続ける粒子ではないかという説だ。
 通常は放射線が皮膚から入ってこないようなエネルギーの低い粒子でも、これが起こり得るという。

 1986年にウィーンで開かれた会議では、チェルノブイリの事故でこうした議論に結論が出るのではないかと、専門家たちは期待した。
 その中の一人が言った。
 「20年か30年のうちには、比例仮説が(正しいのか)どうなのか分かるだろう。
 少なくとも、白血病や肺がんとの関連性は分かるはずだ」

 そうはならなかった。
 放射線を浴びた子供たちの間では、治療可能な甲状腺がんはかなり増加した(これは、当時もっと迅速な行動をとっていれば防げたものだ)。
 しかしそれ以外は、国連の監視プロジェクトでは、チェルノブイリ地域の住民の間
 「がんの発病や死亡率の上昇を示す科学的な証拠
は見つからなかった。

 だが、だからと言って、「過剰な」がんによる死亡を予測する他の何万もの研究を止めることにはなっていない。
 そうした研究は、欧州中で何十年にもわたって行われ、すべて「比例的で、閾値はない」モデルを基盤としている。
 また、どこの政府でもそのモデルを規制の基準としている。

 これらのことがすべて、日本では直接的な意味を持つ。
 中でも、ホットパーティクルの問題はいずれ大きな懸念材料となるだろう。
 「比例的で、閾値がない」とする考え方では、日本政府はどのレベルの放射線も「安全だ」とは言えなくなる。
 たとえそれが、平均的な人にとっては、無視できる程度のリスクのものだったとしても。
 この先何十年にもわたり、発がん率の小さな変化を巡る論争や、ある患者が
 「福島原発の犠牲者か」
という答えの出ない論争に、日本政府は振り回されるかもしれない。

 もちろん、バーデン・ビュルテンベルク州の緑の党にとって強烈な皮肉となるのは、リスクのモデルなど関係ないということだ。
 どこから見ても、核よりは石炭の方がずっと危険なのだ。

 統計的な予測の産物ではない、実際の死者数から示そう。
 毎年、炭鉱事故(特に中国での事故)で死亡する人の数は、核関連の事故の死者数合計より数千人以上多い。
 さらに、石炭火力発電所では水銀や他の金属など、有害な物質を排出する。
 加えて、放射性トリウムやウラニウムなどの排出量は、原子力発電所よりも多い。
 水銀などの金属は、「比例的で、閾値のない」考え方に、まさに沿うものである。
 2004年に米環境保護省が出した推計によると、当時推進されていた新たな排出基準に従うだけで、年間1万7000人の命が救えるという。

 つまり、バーデン・ビュルテンベルク州の緑の党にとって、これは考える以前の問題だ。
 そう、分かるだろう。
 どちらにしろ、原発は廃炉にする。
 彼らの反原発は、検討すべきテーマではなくて、信念の問題なのだから。

(ホルマン・ジェンキンスはウォール・ストリート・ジャーナルの編集委員)
記者: Holman W. Jenkins, Jr.


 ウーーン。
 コマッタ、こまった、困った。
 何を信じていいのだろう。

 生物が生きのびていくには2つの方法がある。
 「強者生存適者生存」である。
 獅子の世界では、強いものを子孫に残すという。
 もしこの原理だけで世界が動いていたら、世に中は強い物だらけになり、最後はもっとの強い一種類の生物のみが生き残ることになる。
 そして、弱者がいなくなると強者の共食いが発生して強者も消えていってしまう、ことになる。
 でも世の中そんなふうにはできていない。
 強者に食われないように、あるは食われても種が滅亡しないように、塩梅良く作られているというのが適者生存である。
 世の生きものはすべて、環境に合わせて生き残る知恵の遺伝子を備えているはずだ、というのが適者生存というわけである。
 少子化傾向だってその一部に過ぎない。
 多すぎると民族的遺伝子が判断したため、環境に適応すべく人減らしをはじめたのが生態的少子化。
 いわゆる民族個体数調整

 ところで、放射能汚染についてのデータというのはどこまで信じていいものだろう。
 上の記事を読むと当初のデータがことごとく覆されるという結果になっている。
 いったい何を信じたらいいのだろうか。
 やはり、
 「反原発とは、検討すべきテーマではなくて、信念の問題なのだ」ろうか。
 



== 東日本大震災 == 



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