2011年4月11日月曜日

被災地では

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● ロケットニュース24 より




中日新聞 2011年4月11日 14時20分
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011041190131929.html

がれき山積み、「阪神」の倍 復興の壁に


● 【左】3月13日撮影。【右】4月6日、がれきの撤去作業が進む宮古市中心部=岩手県宮古市で(川柳晶寛撮影)
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 東日本大震災は11日、発生から1カ月を迎え、街を覆うがれきの山が、復興作業の大きな障壁になっている。処分に3年と3千億円以上を要した阪神大震災(1995年)を量、費用ともに上回りそうで、除去は進まない。自治体はごみをいったん集める場所の確保や、所有者の意思確認に頭を痛めている。(鷲野史彦、後藤厚三)

 宮城県気仙沼市が、がれきの「仮置き場」に決めた下水道施設横の空き地。自衛隊や業者のトラックが次々と大量のがれきを運んで来ては積む。市の担当者は「ここも4月中には満杯になる」とため息をついた。

 がれきを撤去してまずは車や人の通行を確保するため、仮置き場に運んで一時保管。その後、分別して、焼却や埋め立て、リサイクルする方針だ。

 推計では市内のがれき量は計226万トン。震災翌日からこれまでに運び込めたのは4万トンだけ。市が確保できた5カ所の仮置き場では「全然足りない」(担当者)。がれきの中には、遺体や思い出の品々も大量にある。岩手県釜石市の担当者は「アルバムなど個人には価値のある物は回収してあげたい。時間がかかるのはやむを得ない」と話す。

 宮城県亘理町は、がれきや家屋を撤去する目印として、3色の旗を被災者に配っている。赤は「建物も周辺のがれき」も撤去してほしい、黄は「がれきのみ」緑は「自分で片付けるから、触らないで」のサインだ。

 同町荒浜で鮮魚店をしていた菊池康さん(53)は、ほとんどに赤を張ったが、軽トラックだけは緑にした。軽トラックは海水を浴びて使い物にならない。だが、半世紀前に行商を始めた亡き父から引き継いだ保冷機能のついたショーケースだけは、取っておこうと決めた。「こいつと共にいつか再び商売をする」と誓ったからだ。

 国は、自治体の負担を軽減するため、がれきの処理はすべて国費を投入する方針だ。

 環境省によると、阪神大震災時のがれきの処理量は1450万トン。今回のがれき量の推計は宮城県1600万トン、岩手県600万トン、福島県290万トンの計2490万トンで、2倍近い。

 宮城県は1年以内に仮置き場に撤去し、その後2年以内にすべて処分する方針。岩手県も本年度中に撤去を終え、3年から5年かけて処分を予定。ただ自治体の担当者は「1年での撤去なんてとても無理」。福島県は「福島第1原発の問題で入れない地域もあり、現時点で処分時期は決められない」と言う。





中日新聞 2011年4月11日 15時00分
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011041190145841.html?ref=rank

被災者支援「ふじ丸」、大船渡に到着 入浴や食事を無料提供


● 被災者支援のため大船渡港に到着した「ふじ丸」=11日午前、岩手県大船渡市で(神代雅夫撮影)
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 被災者支援のため、9日に東京を出航した客船「ふじ丸」(23、235トン)が11日朝、最初の寄港地、岩手県大船渡市に到着した。正午から船内を開放して、被災者へ入浴や食事の無料提供を始めた。

 大船渡には2日間停泊し、11日は3回に分けて計1000人の被災者を受け入れる。16の避難所からバスで送迎された被災者が次々、港に着き、船員やボランティアらの応対を受けていた。

 船内では入浴や食事の合間に、客室で家族だけの時間を過ごしてもらうほか、映画上映も行われる。食事はビュッフェ形式で、メニューはトンカツやグラタン、サラダなど23品目。午前10時から1000人分の調理が始まり、神田輝志総料理長は「被災地の食事は栄養の偏りがあると聞く。生野菜やフルーツなど、栄養バランスよく食べてもらいたい」と腕をふるう。

 大船渡港では、接岸とともに地元の海洋少年団がふじ丸の入港を歓迎。手旗信号で「ふじ丸 ありがとう ようこそ大船渡へ」と船員へメッセージを送った。

 少年団の熊谷萌々さん(9つ)は「津波の後、これだけ大きな船が来るのは初めて。みんなの喜ぶ顔が見られそう」と船を眺めていた。

 ふじ丸は大船渡市のあと、17日までに同県の釜石市、宮古市を回り、今回の支援活動を手掛ける商船三井は計6千人の利用を見込んでいる。



東京新聞 2011年4月11日 夕刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011041102000192.html

地盤沈下70センチ 満潮のたび水浸し 石巻、続く苦難


● 地盤沈下により満潮時に冠水した道路=10日午前7時34分、宮城県石巻市で

 東日本大震災の影響で、宮城県石巻市や南三陸町などの沿岸部は60~70センチ地盤が沈下した。
 石巻市では毎日二回の満潮時に、自宅の玄関まで海水が入り込む家も。
 「ここにはもう、住み続けられねぇ」。
 震災から一カ月たっても続く災難に、住民は再興を期す気力すら奪われつつある。

 海岸から300メートルほど離れた石巻市東部の塩富町。
 夕方、満潮が近づくと、道路脇の側溝からじわじわと海水が湧き出す。

 30分後には市街地を通る道路は500メートルにわたって水浸しになり、水深が40センチに達する所も。
 車や自転車が波しぶきを上げながら通り抜けていく。

 「これじゃあ、とてもじゃないが住んでいられねぇ。金さえあれば引っ越したいんだが」。
 地元の理容師、阿部正晴さん(60)が水面を眺めながら話す。
 津波で自宅兼店舗は床上浸水したが、建物の損壊は免れた。
 二階で妻、母親と三人で暮らす。
 だが、九十歳の母親は、海水に漬かった自宅前は歩けない。
 毎日続く水難に、希望が見えない。
 「店を再開しても、この状態じゃあ、お客が来られない。津波が引いても、また追い打ちだ」

 西に約3キロ離れた同市の湊町。
 ここも地盤沈下し、満潮時には側溝からあふれた海水で、国道398号は300メートルほど水没する。
 「工場を再建したいが、この水では…」。
 国道沿いで、自動車整備工場を営む千葉栄光さん(60)は、ため息をつく。
 塩水の中を車が走ると、車体がさびて傷みやすい。
 工場は津波で90センチ浸水し、やっとヘドロを片付け終えた。
 だが、工場を再開しても、車を浸水させてまで修理に来る客がいると思えない。

 200メートルほど北側では、家や工場が丸ごと流され、壊滅状態となった風景が続く。
 「この土地に、再び、人が戻って来る日が来るんだろうか」と漏らした。

 石巻市の担当者は
 「家を失った被災者の支援に手いっぱいで、何世帯が浸水しているか把握できていない。
 今後の方針も今は立てられない」
と話す。

 名古屋大の水谷法美教授(海岸工学)によると、地盤沈下した土地の浸水被害を防ぐには、いったん住宅を取り壊して地盤をかさ上げするか、一帯の周囲を堤防で囲って海水をポンプでくみ上げる方法がある。
 いずれも数百億円規模を要する。

 だが、水谷教授が挙げる最も有効な手段は、街ごと高台に移すこと。
 今回の震災では、岩手、宮城、福島の三県で沿岸部の広範囲にわたり、街が壊滅的な被害を受けた。
 そのすべてを高台に移すだけの場所はあるのか。
 解決策が見えず、どこも共通の悩みを抱えている。



 被災地のニュースを探していたら、「すごい」のが出てきた。
 なにしろすでに1カ月たっているのにもかかわらずに、いたこういう人が。


ロケットニュース24  2011年4月11日
http://rocketnews24.com/?p=87121

原発20キロ圏内で1カ月を過ごした75歳の男性



 震災から1カ月、政府は福島第1原子力発電所から20キロ圏内を、法的拘束力の強い「警戒区域」に設定することを検討している。
 原子力安全委員会は、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に基づき、20ミリシーベルトを上回る地域の住民を避難させるべきだとの見解を示している。

 その20キロ圏内で1カ月を過ごした1人の男性が、英国メディアに報じられている。
 食べ物はほぼ底をつき、電気も水道も使えない状況下で、彼はしのいできたのだ。

 英国ニュースサイトのメールオンラインによると、75歳で畜産を営むシガクニオさんは、震災発生以来、自宅で過ごしてきた。
 彼の家は、原発から20 キロ圏内、つまり現在の避難指示区域である。
 ライフラインを絶たれた環境で、電池式のラジオで情報を得ているという。
 わずかな食べ物でこの4週間をしのいでいるそうだ。

彼は足が悪いために、自ら避難所に行くことができなかった。妻は行方不明となり、隣人は南相馬市に避難したとのことだ。震災以来、彼が言葉を交わした人物は、同紙の取材班が初めだった。

 「津波が来たときに私は、家へ逃げ込んだ。
 妻も一緒にいたけど、どうなったかわからない」
と当時の状況を振り返っている。

 最終的に、彼は警察に保護され、避難所へ移ることとなった。
 しかし、
 「私はもう歳だ。ここを離れてどうなるかわからない。誰が私の面倒を見てくれる?」
と、移動を頑なに拒んでいたそうだ。
 現在は安全な場所へと、移動しているとのことである。




 捜索活動に同行取材:JNNニュース









[◆ その後の話]


NEWSポストセブン 2011.04.15 07:00
http://www.news-postseven.com/archives/20110415_17376.html

被災地のラブホテル 連日満員で子供連れ家族の明るい声響く

 石巻市と隣接する宮城県涌谷町のラブホテル
 ビジネスホテルより広めのそのバスルームでは、部屋の内装には似つかわしくない、子連れの家族の明るい声が響いている。

「お風呂、久しぶりだね~」「あったかくて気持ちいいね~」

 普段、ラブホテルは男女2人で入る場所であり、風営法上、未成年は入ることができない。しかし、このラブホテルは違反を承知で、被災者の家族に部屋を提供している。

 内陸部に位置し、沿岸部に比べて震災の被害は少なかったものの、ガスや水道が止まり、再開したのは3月25日。
 壁紙が剥がれたり、水道管やボイラーが壊れるなどの被害が出たため、復旧作業をしながらの営業だという。

 「石巻市内のラブホテルの多くは海岸に近い場所に建っていて全滅状態。
 それもあって、『いつから再開するのか』と毎日、何十件も問い合わせがあった。
 営業再開に当たっては、社長が地元のFM局に頼んで、『ホテルは営業しています。
 お風呂にも入れます。
 家族での利用もできます』と流してもらったんです」(ホテルのスタッフ)

 再開以来、ほとんど満室状態で、その多くが家族連れの利用だという。
 休憩が3990円で、宿泊が5770円。
 被災者向けに割り引きはしていないというが、
 「今は、何人でご利用されても追加料金は頂いておりません。
 宿泊は21時からですが、17時ころに来られて宿泊したいと希望された方には追加料金なしの宿泊料金で対応しています」
とのこと。
 部屋には2人用の大きめの布団1枚しか用意されていないため、
 「寒いので布団をもう1枚、貸してほしい」
というリクエストも多いという。

 近くにあるラブホテルも同様で、支配人は、
 「今は満室状態。ほとんどが家族連れの方で、休憩3時間で帰られますね」 
と語った。

 このホテルから家族連れで出てきた30代のご主人に話を聞くと、
 「家は流され、着の身着のままで避難して仕事もなくしたので、正直3500円の出費は痛い。
 でも、プライバシーのまったくない避難所生活に、特に子供が我慢できなくなってしまって『お父さん、なんでここにいないといけないの?』って聞いてきたんです。
 だから、今日は子供も大喜びでした。
 お風呂にもゆっくり浸かれて、家族だけでいられる3時間はとても大切なもの。
 お金には代えられません」
と嬉しそうに語った。

 死亡・行方不明者合わせて2000人近くを出した名取市でも、ラブホテルはどこも家族連れで満室だ。
 「ラブホテルは海岸近くではなく、バイパスや高速沿いに林立しているので、被害は比較的少なかった」
 とラブホテル関係者。
 実際に海岸から6キロメートルほど内陸にあるバイパスを車で走るとラブホテルが並んでいた。
 「入湯のみ30分500円人数制限無し 1時間2000円24時間受付可」
 「おフロ・シャワー営業中です!! 子供無料」
等といった紙を貼っていた、あるラブホテルの支配人がいう。
 「大震災で困っている人たちがたくさんいる。
 ウチでも何かできることはないかと、被災者の方にお風呂だけでも提供したいと考えました。
 1時間は2000円とちょっと高めに設定していますが、それは少しでも多くの方に入浴していただきたいからです」

 商売無視だという支配人、被災者に喜んでもらえたことが嬉しかったという。

※週刊ポスト2011年4月22日号





 



== 東日本大震災 == 



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